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私が開院した理由

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カイロドクターになろうと思った理由、それは…

院長:吉田

自分が苦しんで苦しんで、病院でも投げだされ、そして救われ、その可能性を一人でも多くの方に伝える使命があると感じたからです

ある日突然、座れない…

中学2年生の冬、ラグビーの練習を終えた土曜日であったことは覚えています。 土曜は夕方に練習が終わりそのまま電車とバスを乗り継いで祖父母宅に泊まりに行きました。 夕食時に急に畳の上に脚を投げ出して座ることができなくなったのです。 あぐらもかけず、かろうじて出来る姿勢が体育座りと横になることでした。

「寝たら治るだろう、大丈夫だ」と考えていました。しかし日を増す毎に症状は悪化していくばかりでした。 座ったり立ち続けて同じ姿勢をとる痛みとシビレで左のお尻から左足首まで電流がながれました。 身体が右側に傾き、お尻を突き出して歩き、くしゃみや咳も出来ず、洗面台で顔を洗えず、階段に座り母親に靴下を履かせてもらい、寝ながら授業を受けていたこともありました。

中学生でギックリ腰を繰り返し、受けた診断は…

整骨院、近所のクリニック、整形外科、総合病院、大阪で有名な病院に通いました。 レントゲンやMRI検査を受けて腰の下2つの部分に【椎間板ヘルニア】なるものが発症していることが判明しました。 原因が分かりほっとしたのは一瞬でした。しかしどの先生にも渋い顔で「手術はリスクが伴う」と告げられました。 14歳という発育途上の段階で腰、脊椎の近くをメスで切り開くことに消極的でした。 結局行った治療は「硬膜外ブロック注射」という激痛を伴うものでした。

少しだけ言わせて下さい。現在までに 骨折複数回、まぶたを縫うこと2度、頭皮が割れて縫ったことも2度、指の脱臼、 肩の亜脱臼、肉離れ数回、捻挫数知れず、打撲は数えきれないほど経験しました。 人生で最も痛くてつらかったことは?と聞かれるとこう答えます。 「ブロック注射と良くなるのかという不安感」そしてアメリカ留学時の「パニック障害」です。 まず「ブロック注射」の前に腰の筋肉に麻酔を打つのですが、その麻酔がまったく効かないほど痛い注射です。 もしくは効いたうえでの激痛だったかも知れません。

手術室で手術台の上に横になり麻酔を打ちます。 その後にカラダの芯の部分に液体を入れます。 その間の数十秒間は雄叫びをあげました。看護師さんの手を握り、手術室に私の叫び声がこだましました。 看護師さんの励ましともうすぐ終わるからという先生の声が数分から数十分にも感じました。 大阪の近鉄電車に乗って総合病院に向かったのですが行きは恐怖で憂鬱、帰りは痛みで座れずドア横の手すりにもたれかかっていました。

病院、専門クリニックでも良くならず…

それを数週間あけながら7回繰り返しましたが改善がまったく見られませんでした。 痛み止めの服用しながら、理学療法士の方と特別なメニューでリハビリが始まりました。 症状には波があり、痛みが無くなったり、ぎっくり腰の症状が年に数回出たりもしました。 中学3年の冬に整体やカイロプラクティックを受けて数回の施術を受けて激変しました。

症状が落ち着いた後もアドバイスされた体操や姿勢を1年以上続けました。 座れる、顔を洗える、せきやくしゃみができる、痛み無しに動ける、そして笑うことが出来るように なりました。 ラグビーも思う存分プレー出きる様になり、大学まで充実した学生生活を送ることができました。

カイロを学びに米国へ

カイロドクターになろうと思ったのが日本で大学2年生の時でした。薬を使わず、手術もせずに手によって行う治療に惹かれました。 最初の一年は地元の大学に通い、英語を学びながら理系単位を履修しました。 そしてカイロプラクティック発祥であるパーマー大学に入学しました。

授業についていくのに必死になりながらも、たまたまラグビー部があったのでアジア人として初のレギュラーになり奨学金を貰いながらプレーしました。 授業、カイロプラクティック技術の勉強会、セミナー、練習・試合と寝る間もなく過ごしていました。

留学2年目に待ち受けていたのは…

毎日のスケジュールはとても忙しくてまるで大学に住んでいるようでした。 朝の7時過ぎから始まる授業、膨大な量と数の試験、解剖実習、ラグビー部の練習・遠征、試験の準備 と睡眠時間も極限まで短く徒歩2分の自宅まで帰るまでの時間が惜しく、学内の仮眠室で睡眠をとっていました。 ある時にめまい、動悸、息切れがして自分で運転してERに行くと血圧が220を超えていました。 その時は原因が不明だとドクターに告げられました。 ちょっとした頭痛やけいれんで脳内出血や心臓発作ではないかと心配になり、引きこもりの状態になりました。 大げさではなく【死】を意識しましたし、【生】への執着もいっそう芽生えました。 授業にも出席せずに現実逃避をしていました。数少ない日本人留学生の友人が生死の安否確認の為にアパートに来てくれたほどでした。

一時帰国した時に診療内科で鬱の診断も受けました。アメリカに戻った後に診断学の教授に相談し、授業の後に何度もカウンセリングを受けました。 その教授もパーマー大学を卒業後に私と同じパニック発作を経験していたのでした。 留学して2年を過ぎたあたりだったので私に分かる様にゆっくり、丁寧な英語と真摯に向き合ってくれました。 その教授のアドバイスもあり、自分の気持ちと身体をコントロール出来るになりました。

私は中学受験、大学受験も問題なく終え、ラグビーも辞めずに続け、留学する際も問題なく入学できました。 それまでは順調だったのですが自分のキャパシティーでは対処できない程の忙しさや勉強量でコップの水が 溢れだした状態でした。その試練を乗り越えることで他人の痛みや苦しみを知り、自分の【弱さ】も受け入れるようになりました。

自分がやりたいこと…

パーマー大学卒業後に手足、顎関節、肩も治療できる専門の認定カイロドクターの資格を得ました。 パーマー大学ラグビー部でレギュラーだった時に先輩のドクターがその資格を保有しており、 試合前や試合後に手首や肩の治療をしてもらう度にその素晴らしさに感銘を受けたからです。 カイロプラクティックは背中の神経を主に施術しますが、必要に応じて手足も診るようにしているのは先輩のグレートドクターがキッカケです。

ヨーロッパで多くの経験を

大学在学中からヨーロッパのドイツ、オランダで働きたいと思っており在学中の休みを利用してヨーロッパを周りました。 そしてそパーマー大学の大先輩が院長をしているオランダのアムステルダムで主任カイロプラクターとして働き、のちに副院長になりました。 そのクリニックはオランダで最も忙しい院の一つで診療時間中は患者さんの予約で埋まっており多くの症例や臨床を積みました。 3年が経過した頃に他の院からの誘いや譲渡の話も頂くようになりました。

日本への帰国を決意、それは…

当時の考えはヨーロッパで自分の院を開く予定でした。しかし東日本大震災で私の考えが変わりました。 繰り返し起こる地震、津波、原発問題のニュースをインターネットを通して遠い国からただ傍観するしか出来ませんでした。 国際電話が優先的だったという噂もありますが横浜在住の両親と電話でつながりましたが都内に住む2人の兄とは連絡が取れていませんでした。 しばらくして無事が確認されましたが、その後に自分の存在、家族、友人、日本について深く考えるようになりました。

自分が出来ること…

それはカイロプラクターとして多くの人に伝えること。治療そのものは世界のどこにいても変わりませんが、 9年の海外生活で【日本人】をより意識するようになり、同時に【伝えること】の重要性を学びました。 日本ではカイロプラクティックが正しく普及していないという側面もありますが愛する家族や友人、生まれ育った日本にお返しがしたいと思い始めました。 そう思った理由は海外で生活していたからこそ感じたものかもしれません。

日本に帰国後…

日本に帰国後東京・銀座にある自然療法クリニックの院長先生にお声がけを頂き訪問施術を行いました。 カイロプラクティックが認知されていない日本では地道な活動が必要と感じたからです。 帰国後2年間は訪問カイロプラクティックで色んな場所に伺いました。 東京都内、千葉、埼玉、神奈川の関東をはじめ静岡、愛知、大阪、兵庫、高松にも個人や法人を 含めカイロプラクティックを広めるための活動を行っていました。

東京・恵比寿にDr.ヨシダカイロプラクティックを開院

毎日都内を移動するなかで恵比寿もよく訪れて いました。ある日、ふとこの場所で開院している情景をイメージするようになり、何度もそれが脳裏をよぎりました。私の開院する地はここだという直観が湧きました。 そして2016年3月に恵比寿に院をオープンしました。地域の方から信頼されている提携クリニックでのレントゲン撮影のご協力のもと、日本では数少ない高度な画像分析を行うことができております。

より高みを目指して

施術やアドバイスを通してあなたが自分の身体と対話する習慣をつけ、ご自身で健康管理ができるように 導くことが理念であり使命だと思っております。これからも自分自身を磨きつつ邁進していく所存です。

最後までお読みいただいてありがとうございました。


院長:吉田

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